2004

パタン・ランゲージ(「建築家であること」より)

「建築家であること」シリーズの最終回は、やはりこのネタになります。 85年にクリストファー・アレグザンダーの設計した盈進学園がオープンしたのですが、石山修武さんは「アレグザンダーの可能性と限界の両方をみてしまった」と言います。「彼が言っているパタン・ランゲージというものは、彼個人の頭の中、理念の中に全部集約されすぎていて、それを共有することが難しかったのではないか」「だから、施工の途中で非常に大きいトラブルもたくさんあったようですし、そのトラブルをリカバーできなかったのではないか。」ということです。 これはショックな発言です。私は、パターン・ランゲージ、デザインパターンは、コミュニケーションの質をあげるためのものと理解していたからです。 こちらの「盈進学園パタンランゲージ」というページで、実際のパターンが紹介されています。もしこれだけだとしたら確かに共有はできないでしょう。パターンランゲージであるからには、これだけではなく、「文脈」「問題」「解決」という形になっているとは思いますが。 以前も思いましたが、この辺は本当に実態、特にこの件を批判的に見る眼からの実際の状況を知りたいなと思います。

美意識(「建築家であること」より)

同じく、内井昭蔵さんの発言で、日本人について「宗教がない上に、美意識が欠落してしまったらどうなるか、それがまさに今の状態なんですね」とありました。 ここの「美意識」は、多少広い意味で、例えば、「武士道」と置き換えると新渡戸稲造の「武士道」になるそうですし、しばしば「羞恥心」と置き換えられたりもすると思います。 個々のデザインの美ではなく、全体の美を追求したいとありますが、それもその通り、システムでも「これができればよい」ではなく、全体を考えながらやらないといけないですね。

コンペにおける世田谷方式(「建築家であること」より)

内井昭蔵さんのインタビューで、「世田谷方式-作品を選ぶコンペではなく建築家を選ぶという方法で、人を選んでくださった。建築家は職人のようなものですから、ここぞ、とほれ込まれたらそれにこたえない人はいないですよ」とありました。 世田谷方式というのは政策評価面で言われていることが多いようですが、ここでは世田谷区で進めている「新しい公共」という概念に基づいて、公私協働の観点で政策を進められる人を探すために行われた、という意味で話されているようです。 協働という観点は非常に重要だと思います。請け負う側でも協働できる依頼者を探すという観点で仕事をしていけると、お互いに成長でき、ひいては全体のレベルアップにつながると思うんですけどね。

デザイン・ガバナンス(「建築家であること」より)

大江匡さんのインタビューより。 建築の世界では、組織事務所とアトリエ派という分類の仕方があるそうです。大江さんは、アトリエ派はテクノロジーをアートから分離させた結果、クライアントから見放され、仕事の幅も住宅と公共建築のコンペしかなくなっていると批判しますが、他方「大手事務所は、デザイン・ガバナンス(管理)ができていません。組織事務所とはいえ、意外と属人的なところがあって、ものすごく良いデザインもありますが、確率的にはひどいデザインが多い。」と言います。 これは、情報共有という問題が絡むと思いますが、ナレッジマネージメントだとか何だとか言って、情報共有システムを生かそうとしても、本質は違うのかも知れないというのが、最近感じていることです。ちょっと昔の例で、アサヒビールの営業ノウハウのシステムなんかがよく話題になっていたように思いますが、そういうノウハウの共有のようにうまくいく例もあれば、行かない例もありますよね。アプリケーションの設計・プログラミングといった技術の伝達は掲示板システムのような場では十分にはできないのではないか、やはり弟子は師匠に付いて一緒に仕事をする必要があるのではないか。そういう意味で、ペアプロができるチームというのは、そのこと自体組織として成長できるチームであることを示しているような気がして、うちのチームはもう一皮向けないといけないかなと考えたりして・・・。

「2万項目」の要件(「建築家であること」より)

同じく、宮脇檀さんと吉田あこさんの対談より。 宮脇さん曰く「住宅建築というのは、例えば施主からの要求が1000項目あるとすると、我々の頭の中で考えている部分は2万項目くらいあるんです。だから我々は、ほとんど施主の言わないことをやっていると言ってもいいわけです。」 まったくその通りですね。で、最近は自分に自信がなくなってきて、「2万項目」の仕様書を書いてテストをしなければならないのかな、と考えていたりしたのですが、やっぱり、それは違うかもしれないです。これはプロの常識として、100パーセント間違いなくできているはずのことなのですから。

ジャン・ヌーベル展

東京オペラシティ アートギャラリーで、「建築家であること」にも出てくるジャン・ヌーベルさんの展覧会が開催中だそうです。 ジャン・ヌーベル展 2003.11.1[土]─ 2004.1.25[日] http://www.operacity.jp/ag/exh46.html 汐留電通ビルのデザイナと言うことで、あまり好きではないかもしれませんが(偉そうに!>自分)、おもしろそうだとは思うので、行ってみようかな。

プロの設計(「建築家であること」より)

続いて、宮脇檀さんと吉田あこさんの対談より。 高齢者に優しい住宅の研究を進めるという吉田さんの発言に、「建築家に手すりをつけさせるというのはなかなか大変なことなんです」「手すりを両側に付けるということもなかなかやってくれないんですよ。なぜ両側に必要なのか、と言われるんですね。」「なぜかと言うと、日本人には脳卒中で亡くなる方が非常に多いんですが、脳卒中というのは一方の手足が利かなくなるんです。だから上るときと下りるときで両側に手すりが必要になるわけです。」とありました。 実は、去年、身近な親類がこのような状況で家を建てたのですが、言っておいたにもかかわらず玄関に段差はあるし、廊下は狭いし、という有様で、昨日遊びに行ったのですが、案の定、手すりは片方にしかありませんでした。 これまでの「普通」の家としては別に問題ないわけで、間違いなくプロの方が設計をしているわけですが、身障者のための家という観点からみたとき、この方は十分なノウハウを持っていなかったわけです。 この点について言えば、おそらく今後はこのような配慮をすることが「普通」の家にも求められてくると思いますが、個々の案件では普通になるのを待ってはいられません。 例えば、今はブラウザで入力欄を移動するのはTabキーを打つのが普通でしょう。これが将来Enterキーで移動するのが普通になる可能性はあると思います。でも、明日伝票を左手に持って右手で入力しなければならない人にとっては、それを待ってはいられないかもしれないわけです。これをプロだからといって、「普通はTabキーでの移動ですから、Enterキーで移動するようにしてしまうと、他のページと違和感を感じてしまいますよ」と片づけてしまうのではなく、利用者の声に耳を傾けて、本当の理由を探る必要はあると思うのです。そして、色々な専門に深いノウハウを持つ努力も続けなければいけないなと思います。 (もちろん、何でも利用者の声を聞けばよいわけではないだろうというのはコンポーネントの話に書いたとおりですし、不特定多数の人が使う場合には違和感の問題の方が大きくなるので、ケースバイケースなのは言うまでもありませんね)

コンポーネントの考え方?(「建築家であること」より)

今年も、去年に続いて、正月休みは建築の本を読んでみました。 「建築家であること」(日経BP社) しばらく、この中でおもしろかったことをネタにしてみたいと思います。 本の内容は、色々な建築家に対するインタビュー集で、共感できる人、とても受け入れられない人、色々でおもしろかったです。 さて、まずは山本理顕さんのインタビューの中から、考えさせられた話を取り上げたいと思います。 設計者が提案するにあたっても色々な制約があるという話題の中で、「老人介護や入浴サービスなど自治体が持っている様々な移動サービスや民間の共同購入のための場所などをドッキングするようなプランを考えいています。そうすると施設自体はローコストで済みます。」という話が出てきました。 これは、まさにコンポーネントの考え方だと思います。 とても合理的で、有用ではないかと思いました。しかし、きっとこの考え方も、色々な制約にぶつかるのだと思います。 この建物を建てる人は、自分で介護施設を作らなかったことになりますし、自治体のサービス以上のサービスを提供することもできなくなります。 口では合理性を言っても、結局は自分の支配下に持っておきたいという考えはきっとあると思うのです。 ソフトウェアを作るときも、コンポーネントそれ自体では十分な機能を持たなくなるのですが、他との組み合わせや拡張の時にトータルのコストダウンの効果を発揮することになるわけで、長い目で見る必要があると思うのです。でも、目の前にあるものに不満を感じてしまうと、なんで元からこういう機能を持っていないのか、という不満になってしまうわけです。 もちろん、そこまでのヒアリングをして、コンポーネントを組み合わせることによって、十分な機能を持たせたアプリケーションを作らなければいけないのですが、作る側・使う側双方の意志が同じ方向を向く必要はあるなと思います。